中央アフリカ共和国の人道危機の始まり

 

 今日、中央アフリカ共和国では国民の4分の1近くが家を追われ国内外での避難を強いられている。なぜこのような事態になったのか、今回はその概要について説明していく。

  

 2012年10月、主にイスラム教徒で組織された反政府集団セレカは北東部地区で政府から排斥されていた。そのためセレカは当時の政権、François  Bozize政権に対抗するために軍事キャンペーンを行った。2013年3月24日、セレカの反乱軍は首都Banguiを制圧し、Bozizé大統領を追放した。セレカのリーダーの一人のMichel Djotodiaは憲法を一時的に停止し、自らを元首とする暫定政権を誕生させた。

 

 セレカは、自分たちこそが平和と安全をこの紛争多発国にもたらすと主張した。しかしながらセレカのもとでは、中央アフリカ共和国は暴力の拡大、人権侵害によって、多くの国民は苦しめられている。セレカ軍は国をまたぎ強奪を行い、数多くの殺害を繰り返し、レイプを、そして街への放火を行い続けた。繰り返される残虐行為、整備されていない道路をにより、多くの地域へのアクセスが困難になっている。

 

 2013年9月、セレカのリーダー、Djotodiaはセレカを解散させたが、旧セレカは今もなお全土にわたって支配を続けている。名目上では国軍は統合されていたが、旧セレカ軍の暴力による支配は、多くの地方住民に恐怖を与えた。そのため彼らに対する反対の声は多くなり、9月にはキリスト教徒を主とするアンチ・バラカによる旧セレカ軍への反撃が始まった。

 

 もともとアンチ・バラカは自分たちのことを、地方の自衛団と名乗っていたが、次第に標的はイスラム教徒全体に広がり、旧セレカ軍の残虐行為に対する報復行為を主張し始めた。中央集権化の確固たる司令構造を持ち合わせていなかったアンチ・バラカは、現在のところ中央アフリカ共和国の北西部にて強い勢力を持っている。12月5日には、Bangui及びBossangoaでの大規模な軍事攻撃を企てた。これらの組織は、Bozizé大統領のもと、武力組織から守護をしていた、大統領の守護隊(別名赤いベレーボー)を含む、FACAの多くの元軍隊によって構成されている。

 

 500万人近い国民人口の約80%がキリスト教徒で、15%がイスラム教徒であり、イスラム教徒のほとんどが北東地域の首都から遠いところに集中している。他の地区ではイスラム教徒はマイノリティーであり、商人か遊牧民となっていることが多い。

 

 

中央アフリカは、普段から貧しい生活を強いられていたイスラム教徒が団結し、政府およびマジョリティのキリスト教徒に対して攻撃を行ったことから始まった。そして今度はキリスト教徒が立ち上がり、イスラム教徒に復讐を行なっている。つまりは「やられたらやり返す」という状態になっていて、収拾つかなくなっている。ただ、言いたいのは決して宗教対立というわけではないこと。あくまでグループ分けをするときに、宗教名を使うのが最も簡単であったため用いているが、あくまで根本的理由は、宗教観の価値観にあるのではなく、独立後の政治統治がうまくいかなかったことである。現に、セレカを説明するときにいつも「主に」がイスラム教徒の前に着くのは、そこにチャドを始め、海外の傭兵たちも参加していたのだ。そして根本的理由を考慮して、セレカを形容するなら「最も後進的な地域の出身者と外国人から成る組織」が適切だと、武内進一氏は述べている。

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参考

 

中央アフリカにおける国家の崩壊」武内進一

「They came To kill」HUMAN RIGHTS WATCH