日本の潜在的支援力 -西日本豪雨-
2018年の七夕シーズンに起きた西日本豪雨。
僕の実家の倉敷も大きな被害を受けました。
被害は真備の方に集中し、市街地近くにある実家は幸い、被害は受けなかったようです。
豪雨被害が拡大していくにつれ、SNS上には多くの被害報告がアップされそれらの投稿はいいね、リツイートを通して多くの人に共有されていきました。
地元の被災ということもあり、次々と友人が何かしら発信していく様子が見られました。
はじめはこう言った情報を見て、緊急事に立ち上がる様子に感心したり、自分が今地元にいないことを悔やんだりしました。
でも次第にそう言った思いは薄くなり、ある思いが心に浮かんできました。
ある意味、職病なのかなとも思っています。
今、行われている個人単位の災害に対する動きは、それぞれが持っている余っている財産であり、潜在的支援能力なのでは?と。
例えば、A君が「真備町にレトルト用品を、生理用品を買って寄付する」
というケースは、A君はそれらを自分の財布からお金を出して買っても、特に問題はなく、少し今月何かを我慢しなくてはいけなくなるかもしれないが、あくまで許容範囲。
A君がこの支援のために1万円出費したのならば、彼は1万円の潜在的支援能力を毎月持っていると考えることができます
でもA君は特に大災害がないような月には、その1万円を浪費している可能性が高いのではないでしょうか。
しかし世界には、もちろん日本にも人道危機に対する、支援の呼びかけは年中行われています。もっと言えば、世界には今回の西日本豪雨よりも支援を必要とする出来事が起きています。
でもA君がこれらのために潜在的支援力を発揮できないのは、まずそういった出来事を知らないという理由がまず第一に考えられます。
そしてその次に、例えそういった現場があっても、支援しようと思えない。
今回の豪雨災害に支援したA君でも、その出費をもったいないと思ってしまうのです。
ではなぜ今回の西日本豪雨は支援しようと思えても、ほかの支援はしようと思わないのか。
そこにはA君がいかにその出来事に関心があるか、それが大きく彼の行動に作用します。
例えば今回の西日本豪雨でA君の友達が被災していたら、「西日本豪雨の被災者」にというより、「被災した友達に」というより自分により近い存在、具体的な何かのために行動しようと思えるのです。
対して遠く離れたシリアで起きている危機には、例えその現状を知っていたとしても、「シリアの誰か」という遠い存在、抽象的にしか思えないのです。
それではこういった問題に対して、自分の潜在的支援力を発揮させるにはどうしたらいいのでしょうか?
まず言えるのは「想像する」、つまりは客観的にそれぞれの出来事を見て、比較し、自分がどういった対象に対して、その力を使うことが求められているのかを考えるということが大事なのです。
そうすると今回の豪雨災害のために動いたのに、アフリカのこの問題に関して支援をしないのはおかしくないかと思えるのではないでしょうか。
まずは、「想像」してください。いまのこの先進国である日本に足りないのは「imagination」です。
すると世界の状況が変わって見えてくるはずです。